会員の皆様へ

前進座 座右・山崎辰三郎さんの寄稿

 皆様ご存じのように、1月例会『文七元結』でお駒を演じられた山崎辰三郎さんは徳島出身で、かって労演の会員でもありました。
 昨年10月、徳島市民劇場代表者会議でご講演いただき好評を博しました「舞台の世界は、芝居の世界はこんなに面白い」を掲載します。


徳島市民劇場代表者会議 (2024年10月6日)
   ≪芝居は、こんなに面白い。≫
         劇団前進座 座友 山崎辰三郎

 徳島市民劇場代表者会議にお集まりの皆さん、今日は!
徳島市国府町在住の、劇団前進座・座友 山崎辰三郎です。
まず、65年の歴史を持つ、この徳島市民劇場で、サークルの中心となって活動しておられる皆さんに、一人の演劇人として、心よりの敬意と感謝を申し上げます。
 
 今日は、舞台の世界・芝居の世界は こんなに 素敵で面白いんだ! そう皆さんに 少しでも思っていただけるような お話が出来ればと思っています。 よろしくお願いします。
 私の生い立ち、これまでの50年の振り返り。
 私は、つい10日程前に76才になりました。 しっかり、後期高齢者の仲間入りという訳です。
私は、 昭和23年生まれの・団塊世代です。  徳島市の富田小学校のすぐ前で生まれ育ちました。 戦後ベビーブームのピークの年でしたから、私の通った富田中学は一学年20クラス。1000人近くいましたよ。 
 その富田中学から、阿南高専へと進み、2年半のサラリーマン生活の後、一転芝居を志しまして、23才で東京に出たわけです。
 幼少時代は、目立たない きわめて大人しい小心者でした。
小学校時代のあだ名が (ゆでだこ) ですからね。つまり、大変な赤面症で仲間から冷やかされておりました。 
阿南高専に進んでから、吃音症(どもり)になりまして、駅で切符を買うにも、今と違って、自動販売機というものがありませんから、『阿南まで一枚』 この一言を駅員さんに言うのが大変な時期がありました。 
言わば、人生の危機ともいえる時代があったのですね。
高専時代、カウンセラーの先生に吃音症の相談をする勇気があったのが、幸いでしたが、その先生は、『敢えて人前で喋らざるを得ない状況に自分を置いて克服しては、、。』 こうおっしゃって頂き、当時はやりだった オチケン・(落語研究部)に籍を置き、何とか人前で落語をやれるまでになりました。
そして、17才の時、この徳島労演の会員として 何本か芝居を観たことが、役者の道に進むきっかけになりました。
 最初に観た舞台は、1965年東京芸術座の『橋の無い川』でした。
実は、当時、城東高校の女学生と文通をしていまして、キッカケは彼女だったのですが、まぁ少しだけ ませてもいたのですね。
 18才の時観たのが、 福田善之原作 劇団新人会の『オッペケペ』。明治時代自由民権運動を背景の 壮士愛甲辰也を主演で演じたのが
山本学さん。 相手役は渡辺美佐子さんでした。

※ここでオッペケペ節実演 
 

芝居に進む転機になった一本が、この芝居です。 
『オッペケペ』は、芝居が終わって、紗幕が下りて来ると、シルエットで山本学さんが浮かび上がる素敵な幕切れなのです。
私はしばらく文化センターの座席から立ち上がれない程感動しました事を覚えています。その夜、日記に『私は将来役者のなる!』と、殴り書きを残しているのですね。
 大変感動した舞台であった事は間違いないのですが、実は、後日談がありまして、7.8年後、東京で、同じ渡辺美佐子さん主演で、「オッペケペ」を観た時「あれぇーー!」と、言うほど感動出来なかった事がありました。
つまり、当時18才、(これから どう生きてゆけば、、?) と悩んでいた自分を 劇中の主人公に重ねて 舞台を見ていて 激しく感動していたということですね。
 サラリーマンを辞めて上京の際、当然、職場の人・家族から随分反対されました。 私は高専の二期生ですが、当時県内から かなり、優秀な人材が集まっていて、在学中、ろくに勉強しなかった私でも、一応、一部上場企業に就職できていたのですね。
その、職場を捨てて、畑違いの役者にどうしてと思われた訳です。
 今考えてみますと、当時は戦後の高度成長期の真っただ中だったですから、『人間何をやったって飯を食ってゆけるんだから!好きな道に進もう!』 と、生意気に不遜な考えで飛び出して行った、まぁ世間知らずでした。 
 東京に出て、劇団前進座の養成所を経て25歳で劇団員になったのですが、 その、出発点 前進座付属養成所で 夜間2年間働きながら 20名程の仲間と勉強をした、この養成所のレベルが高かったのは、幸せな事でした。  
とにかく、演技基礎・日舞・長唄・三味線・義太夫・体操・バレー・声楽・立ち回り・心理学まで網羅された贅沢な授業でした。
 四国徳島から上京した、ずぶの素人が 養成所の終了公演で、近松門左衛門作『冥途の飛脚・新口村』の、主役の忠兵衛を勤めさせて貰い 無事劇団員の一人として採用されました。
 東京に出た時、私は、文学座・他 の養成所も受験しました。
文学座は今もレベルが高い人気劇団ですから、当然 落ちましたけど、今考えますと、もし、前進座以外の劇団への道を歩んでいたら、間違いなく、途中挫折していたと思います。
 つまり、私は、前進座がレパートリーとして上演していた芝居に 「水が合っていた」のが大きかったと思います。
25才で入座して丸50年経ちました。自分でも、「いつの間にそんな年月が?」 と、つくづく思います。 
そして、長く舞台一筋でやってきた事が、大きな実績に繋がりました。
芝居は中々上手くなれませんが 数字は積みあがるのです。
 これは完全に自慢話になっちゃいますが、舞台生活・この春、丸50年目を迎えました。そして、これまでの出演舞台ステージの延べ回数 ほぼ1万ステージ。これは、一年約200回の舞台を50年続けてきた事になります。
 東京の国立大劇場で前進座は通算40回公演していますが、そのすべてに出演しています。これは、劇団では、代表の矢之輔と二人だけです。まぁ、他劇団の俳優諸氏にはやり得ない数の舞台を踏ませて頂いた事になりました。
私は、歌舞伎演目では、主に(女形) 周五郎作品等の時代物では (普通に男性役)を、ほぼ半々にやりました。
これまで、完全主役の経験はありませんが、『芝浜の革財布』の女房・お春 (この芝居は、例会で2度徳島で取り上げて貰っています。)『御浜御殿』の祐筆・江島、『出雲阿国』の伝介、『赤ひげ』の佐八 等、限りなく主役に近い役も沢山やらせて頂き幸せな事だと感じています。
 

劇団前進座の歴史の振り返り 
 劇団前進座の事を少しだけお話します。
1931年に、松竹歌舞伎の世界から 河原崎長十郎・中村翫右衛門達が飛び出す形で作られた劇団で、今年創立93周年という歴史を持った劇団です。長十郎・翫右衛門は30才そこそこ。創立当時、既に腕のある名優のお二人でした。 
当時、歌舞伎の世界は世襲制・封建制が キッチリ存在していて、お給金も、大名題と呼ばれる大幹部さんと、駆け出しの三階さん と呼ばれる いわゆる大部屋の役者さんとでは、500倍位の賃金格差があったようです。
 昨年、市川猿之助さんが 歌舞伎の舞台に穴をあけ自殺を図るというショッキングな事件がありましたよね。彼のお爺さん、市川猿翁さんと前進座の創立者達は身近な存在として、一緒に舞台に立っていた仲間だった訳です。
 
【劇団はその収入によって座員の生活を保証しつつ、広汎な民衆の進歩的要求に適合する演劇の創造に努力する】
これが、劇団の創立時のスローガンでした。
 創立当時、社会的にも大きな注目を集め、文壇・映画界・マスコミ界等から大変な支援を頂いて劇団は出発しています。
 苦難の中、映画出演を果たし『街の入墨者』『河内山宗俊』等に総出で出演して、当時のお金で5万円という大金が、劇団に残ったのですね。 今なら億単位のお金かと思われます。
さぁ、このお金をどうしよう? と、皆で相談するのですが 「皆で分けちまえ!」との意見を抑えて 武蔵野市吉祥寺に2000坪余の土地を購入、劇団員の共同生活を始めるのです。
 前進座93年の歴史は、この時の英断なくしては、あり得なかったとつくづく思います。 
この土地が一等地になり、財産となり、お金が借りられましたからね。 残念ながら、今は、先輩たちの残した財産を食い潰しつつあるというのが、劇団の厳しい現実でもあります。
日本の劇団の中で、会社制・給料制・厚生年金にも加入 という希少な劇団でしたが、つい最近その制度を幾つか手放しています。
  

人との素敵な出会い、その面白さ!  
 私の役者人生を振り返って、人との出会いという意味で、一番ありがたかったのは、劇団の創立者でもある、先代河原崎国太郎さんに、出会えて育てて頂いた事です。
 現在の河原崎國太郎さんの、おじいちゃん  松山英太郎・政路兄弟のお父さんに当たります。
私が劇団に入った時点で60代半ばだったのですけど、働き盛りの圧倒的な女形さんで 魅力溢れる活躍をなさっていました。 
 今で言いますと、往年の坂東玉三郎さんタイプの方です。
銀座のど真ん中で育ち、先程話に出ました 市川猿翁さんの一門に弟子入りして、市川笑也という名前で、松竹で女形修行を積んだあと 劇団の創立に参加、いきなり、20代で、河原崎国太郎という大名跡を襲名、以来 立女形 として、劇団を支えた方でした。
 美形(美しい)の女形さんで、真女形(まおんながた) と言いまして基本男性役を一切やらずに女形一筋、日常生活でも 「お前さん、そんな事をしちゃぁ駄目ですよ。」「あたしはねぇ、」等と、女性的な言葉使い・所作で通して トイレでも、絶対に立ションをしない。女性的な仕草を、徹底してやっていらっしゃる方でした。又、座談がとても上手で、当時で言う、ハイカラな洒落た役者らしい方でした。
 松竹の歌舞伎の世界では、お弟子制度・世襲制度が現在もしっかりあって、
例えば 尾上菊五郎さんの場合、音羽屋一門という呼ばれ方で、師匠と弟子たちの集団があり、やる芝居の主役級の役どころは、いわゆる座頭と血縁関係がないと絶対にやらせて貰えません。
 これは、今も一緒です。国立の養成機関もありますが、名題止まり。 一定以上の役は、絶対につけて貰えない仕組みです。
 実は、坂東玉三郎さんは、梨園の出じゃ無い訳ですけど、若い時に 芸養子という形で師匠(守田勘彌)と養子縁組をして、且つ、本人の大変な努力があって今があるのですね。 
現在売り出し中の、片岡愛之助さんなんかも 芸養子という形です。
 劇団前進座の場合は、 この世襲制・封建制に反発して飛び出したという 側面がありますので、誰のお弟子という事でなく、公演の都度舞台の助手という形で、先輩の身の回りのお世話をしながら色んな事を勉強するという形です。
 劇団に入って駆け出し修行中の間は、 とにかく国太郎師の女形振りに圧倒されていまして、当時「切られお富」「うんざりお松」という悪婆者と言われる、伝法な女形をやらせると、劇界随一と言われていた方でした、、、。 

※ ここで、切られお富の台詞をひとくさり実演。 『そりゃぁ あなたがおっしゃらなくとも、いずれも様がーー 御存じだぁね!  ヤマザキヤ!』

素晴らしい女形ぶりを拝見して、「あっ、こりゃぁとても駄目だ!とてもとても追いつけやしない!!」と諦めてましたね。
 お酒の席での話ですが、「女形は、ルーツがたいせつだからねぇ。
お前さんは、四国の山猿だから、ちょっとねぇ、、、。」等と、温かく笑い飛ばされておりました。
しかし、山崎辰三郎という芸名も頂き、年を重ねてゆく中で、女形は劇団でも貴重だったものですから、松竹ではあり得ない、大きな役もやらせて貰えるようになったのは、本当にありがたい事でした。
 
 私生活では、劇団の女優・今村文美との結婚の折には、お仲人までして頂きました。もう、40年も前の事ですが、これも自慢になりますが、座内仲間内の結婚式としては、一番豪華なメンバーが集ってくれました。 
お仲人は、国太郎師夫妻 梅之助・嵐芳夫・いまむらいずみ他、当時の劇団の幹事メンバーがこぞっての参加の披露宴でした。
梅之助さんが、スピーチで 『一般社会じゃぁ 会社役員がこれだけ参加の披露宴 新郎辰三郎の今後の出世は間違いなし。という処だろうけど、前進座はそういう所じゃ無いので 心して!』と、
しっかり念を押されたのを覚えております。
 

 これまで、例会で徳島にお邪魔した作品を調べてみますと、
来春の『文七元結』を含め 歌舞伎を中心に、計13回の例会に出演させて頂いています。
 歌舞伎は、一言で言うなら、江戸時代300年間の最大の娯楽だった訳です。  TV・ラジオ・映画は勿論 電気もインターネットも、一切なかった時代の庶民の最大の楽しみだったのです。
 確かに時代は古いですし、歌舞伎言葉がわかりにくいという側面はあります。 しかし、現在まで残って上演を重ねている歌舞伎の演目には、ドラマ性もあり、完成されたものが沢山あるのですね。
今、歌舞伎は松竹さんの独壇場。前進座がやっているのはほんの一部ですし、他の新劇団は歌舞伎には、一切、手が付けられないという、全く残念な演劇界の状況に有ります。
 
 ちょっと話が飛びますけど、、。
 役者の演技に関して 
  皆さんから 「役者さんは、あんなに量の多い台詞をよく覚えられますね。どうしてですか?」と、よく質問されます。
 台詞を覚える事は、舞台に立つ出発点ですが、実はセリフ覚えには、個人差がすごくありまして、例えば大竹しのぶさんのように天才的にセリフ覚えのいい方もいます。 大竹しのぶさん、テレビ・舞台と大活躍中ですが、彼女はテレビの膨大なセリフも一度リハーサルで読み合わせをすると、ほぼ体に入ってしまうようです。そうじゃないタイプに人も大勢いますし、「年齢と共に覚えが悪くなる。」 のは避けられないのですね。 
 私なんかも、年齢を重ねて来て「辰三郎さんも台詞が覚えられなくなったはねぇ!」と言われないように、今は、「人より早めに」「人より多めに」準備するように心がけていますね。
「舞台の役者は一声」と言われます。姿・見栄えより通る声、魅力的な力のある声が出せる事が大切だと言う訳です。
 いい声とは?例えば市原悦子さんの声ですね。
明瞭で力があって、声の中味に魅力があるという事ですね。
又、「台詞は覚えて忘れろ」とも言われます。
 仲代達也さんも、おっしゃっていますが、「せりふを、今その瞬間に思いついたがごとく出せてこそ、俳優の技」、つまり、気持ちが動いていないのに、台詞が出てくるはずがないとおっしゃっているのですね。
そして、そのセリフの力で瞬時に観客のハートを掴まえないと、感動の演技・舞台にはなりません。
   

 感動する舞台 涙する演技 
 『舞台に感動する』『役者の演技に感動する』 言葉ではこう表現しますが、さて感動とは何か? 具体的には難しいですよね。
つまり、役者の演技は、スポーツなんかと違って、良し悪しの明確な物差しが無い。又、その評価も個人差がかなりあります。
映画の現場では、何度もリハーサルをして OKの場面の演技は一応後々まで残ります。舞台はそうじゃないですよね。
 そこが同時に、生の舞台の魅力な訳ですが 私は、個人的には、日々の舞台でも 2,3割ぐらいは出来不出来の幅が出てしまうのが舞台だなと感じています。
 そして、舞台への集中・役への集中した演技が出来る事。これが名優と呼ばれる人の最低条件だと思います。
具体的には、台詞に気持ち・心が如何に込められるか!これに尽きます。  
 身近に前進座で言いますと、中村梅之助さん、いまむらいづみさん。このお二人の集中した舞台には、感服しました。仲間内をも、引き付けずにはおかない迫力を感じます。
 私は、自分は涙脆い方だと思います。そして、その感覚は役者にとって大切なものだと信じています。
 何度も上演を重ねている芝居で演じる役者が違った時「この場面はこんな素敵な場だったんだ。」「初めて、この場で涙が流れた。」という事が、ままありますが、それは、演じる役者さんの、役・舞台への集中が瞬時に観ている人のハートをわし掴みにした時だと思います。
 演技の面で、私が前進座で具体的に、一番厳しく教わったのは 中村梅之助さんでした。二度程、女房役をやらせていただいているのですが、『芝浜の革財布』で、女房お春を演じた折、手取り足取りで指導頂いたのですが、「辰三郎君。これは、江戸の貧乏長屋の夫婦のやりとりだよ。亭主役の僕のセリフに、この間で、この音の高さで、このセリフ回しで返してくれないと、芝居が客席に届かない! 一生懸命やっていますじゃ駄目なんだ!」
まぁ、口を酸っぱく言われましたね。
河竹黙阿弥作品等で、江戸前の、台詞の切れ、キップの良さが 大きく評価された、梅之助さんの演技は、思い出しても圧巻でしたね。

さて、おしまいの話に移ります。

 これまで半世紀、舞台一筋でやってきて、今一番思う事。「昔は良かった!」という言葉で、簡単に片づけたくは無いのですが、芝居・映画・テレビドラマの世界そのもろもろを含めて、ほぼすべての演劇分野で、今は、小ぶりになり、後退していると、思える点です。これが一番残念ですね。
 一昔前ですが、大都市の商業劇場では、長谷川一夫・杉良太郎・美空ひばり・藤山寛美といった時のスターが、大規模で豪華な舞台を作り、長期間 大入り満員興行をしていた時代が長くありました。 
(世界のニナガワ)と呼ばれた 蜷川幸雄さんが、東宝系の劇場で大がかりな 話題の舞台を上演していました。
市川猿之助さんが、スーパー歌舞伎という独自な歌舞伎を日本中で公演していました。
映画で言いますと、映画の黄金時代と言われる1950年代までさかのぼる事は無いのですが、現存する手間暇かけた名作・大作は、ほぼ昔の映画です。 映画スターという言葉も死語になりました。
テレビの世界でも、私は今、民放さんの番組を観る気持ちになれません。テレビが、他人のプライバシーで笑いを取る低俗番組のオンパレードでは、何とも悲しいです。後々語り継がれるドラマが生まれていないと思います。

世界に類のない 日本の鑑賞会・市民劇場運動も 1996年、年間ステージ数2100。会員数28万7千人の時代をピークに下降して コロナの影響もあり 当時の3分の1以下の運動になっています。
市民劇場さんの例会に取りあげてもらう事で、生き延びていた日本の劇団が、幾つも姿を消している計算になります。
こういった事には、実に様々な原因があり、一概には言えません。
「いや、今 映画は新しい時代に向かっているよ!」
「劇団四季さんは、独自に頑張っているじゃない。」
「日本のアニメ文化は世界の先頭を走っているよ!」等、色々な意見も勿論あるかと思います。
庶民の娯楽・文化芸能にお上が口をはさむのは願い下げだとの考え方もあるとは思いますが、本当は、国の文化政策というものが、もっともっとあってしかるべきだと思います。 
日本には、魅力的な芸能・文化が沢山残っているのにその未来が見えてこない。と思います。
日本の文化庁の年間予算が、日本より人口のはるかに少ないフランスや韓国の 4分の1に過ぎない。この事実一つに、表れていると思うのです。 
 阿波踊り・人形浄瑠璃という素晴らしい民族芸能の息づくこの徳島で、演劇鑑賞運動をはじめ音楽・美術等の文化がもっともっと花開く事を願って私の話のおしまいに致します。
 

来年1月23日は、前進座の財産演目の一つ、歌舞伎『文七元結』例会で、女形 (佐野槌女房 お駒)役にて 舞台から皆さんにお目にかかります。  

本日は、ありがとうございました。


学生の月会費が変わりました

2023年2月の総会で承認を得て、25歳以下の学生の月会費が500円になりました!

(入会金1,000円)

徳島市民劇場を存続させるためにも、若い世代に生の舞台の素晴らしさを知ってもらいましょう♪

「とくしまコロナお知らせシステム」のご案内

詳細はあわぎんホールのHPでもご確認いただけます。
例会にお越しの際は是非ご活用ください!

(2020.07.06)